そららについて
中1から日記を付けています。
付け始めたきっかけは、好きな人ができたことでした。
「この気持ち、大人になったら忘れちゃうんだろうな」
その頃のあたしの言葉でそう書かれていました。
気持ちは風化したり美化されたり抹消されたりして本当に考えていたことなんてわからなくなります。
自分の気持ちの「記録」として、そして「ストレス発散」として日記を書いていたのは間違いありません。
ここ何年かはブログというかたちで日記をかいていますが、何年か前まではノートに書いていました。
先日、それを読み返して自分の10年を振り返ってみました。
ここから先は、自分へ確かめる為に書いています。
長いので、スルーする方はそうしてください☆
10台の頃、なりたい職業というものがありませんでした。
職に夢を求めていなかったのだと思います。
とりあえず働いて とりあえずお給料をもらって 土日は遊ぶ。
仕事に人生の比重を全く置いていませんでした。
20歳くらいで結婚して子供を産んで専業主婦になりたいと漠然と思っていた時期もありました。もう今となっては考えられませんが。
20歳をすぎて、自分の経験や友人の話でいろんなことが見えてき始め、仕事がどんなに重要か 人生における比重がどれくらい高いか(人によって様々だとは思うのですが)考えるようになりました。
「夢は何?」と人に聞き、そこから話が広がる人の話を聞くのが好きになりました。
それから、これも漠然とですがSOHO(ソーホー・Small Ofifce Home Office)に興味を持ち始めました。
SOHOと言うと聞こえはいいですが、あたしが求めていたのは、本来の意味とは違う「家で一人で出来る仕事」ということでした。
人間関係の悩みがなく、最初から最後まで自分ひとりで片付けられる仕事がしたいと思いました。
家の中で仕事が出来るなら、結婚しても子供がいても続けられるな、と思っていました。
実際、今ひとりで仕事をしていると、仲間が欲しいと思います。
ないものねだりなんですね。
その頃はネットワークビジネスの全盛期で、いろんな話が舞い込んできました。
うさんくさい話でも、話を聞かないで「NO!」というのは負ける気がして嫌だったので、とにかく話を聞きました。
そこで、やってもいいかなと思ったものがあったので、サイドビジネスとして3年間がんばってみましたが結果は出ずに終わりました。
結果が出ないのは当然だと思いました。
あたしは、そのビジネスよりもそれの飲み会や勉強会が楽しくてしょうがありませんでした。
あたしにとってはビジネスではなくサークルみたいなもので、儲けようという気がまるでなかったんですね。
それに気が付くのに3年かかりました。
それから、たくさんバイトをしました。
3つ掛け持ちしていたこともありました。
寝る時以外はほとんど働いているような生活をして、結局身体を壊してそんなに持ちませんでした。
どうしてそんなに働いたのかというと、単にお金が欲しかったのと自分の限界が知りたかったんです。
自分の体力で自分だけの力でどれくらい稼げるものなのかと実験してみたかったんです。
経験しないことを語りたくなかったというのもあります。
あたし、頑固なんですね。
睡眠時間を削って働いても、その時のあたしの力では月30万も稼げないということがわかりました。
それで身体を壊すんだったら、意味ないんだなって身体でわかりました。
無理するもんじゃないとも感じました。
限られた時間と 年とともに衰えるであろう体力で自分の都合のいいように稼ぐにはどうすればいいんだろうと考えました。
24歳のときだったと思います。
そんな都合のいい仕事は何も浮かびませんでした。
それまでやってきたバイトやパートの仕事の経験で何か出来るわけじゃなく、特別な才能も手に職もあるわけじゃなく、
じゃぁ今度はちゃんと就職して社員として働こうと思いました。
だけど、その前に一度だけ思いっきり好きなことがしたいと思いました。
その時期、かなりスノーボードにハマっていたので、1シーズンだけ雪山で住み込みのバイトをしました。
ゲレンデ内のレストランでのアルバイトで、それまでしたどんな仕事よりも楽しかった。
もともと接客が好きだし、ゲレンデを見ながら仕事が出来るし、昼休みにはひと滑りできるし!
夜は、同じ年頃の仲間と寮で宴会でした。
お金は貯まらないけど(貯めてる人もいましたが)夢のような生活でした。
そこで、自分の好きなことを仕事にしている人にたくさん出会いました。
すごく輝いて見えました。すごくうらやましかった。
人生、稼ぐばかりが脳じゃないんだなって、これも身体で感じました。
自分の好きなことを仕事に出来るって素敵すぎる、そう感じました。
出来ればあたしもそうしたいけど、でもそこまで打ち込めるものがない。
出来ることもない。
また模索していました。
雪山のバイトが終わり、新聞折込の求人チラシを見ていると、カジュアルショップのオープニングスタッフの募集が目に入りました。
B4の赤ベースの大きめのチラシでした。
運良く面接に合格し、あっけなく就職が決まりました。
前にもカジュアルショップの経験があったおかげもあり、店長代理というポストをもらいました。
職権乱用し、朝早く来て鍵を開けて開店準備までの時間を使い、店にある工業用ミシンでデニムのはぎれを縫うのが日課になりました。
あんなの見つかったらクビだったと思います(笑)
バッグをつくったり タペストリーをつくったりとミシンを踏むのが楽しくてたまりませんでした。
年々、お店の知名度と共に売上が上がり、忙しい日々でした。
他の社員よりもお給料がいい分 出勤日数も多く、体力ぎりぎりでした。
4年経ち、仙台に支店が出来ることになり、店長代理で異動しました。
結婚してからは、忙しいとかのレベルではありませんでした。
お店のオープンで、考えることも新入社員に教えることもいっぱいだし、夫の両親との慣れない同居生活、家事もしなきゃいけない、グチを聞いてくれる友人も近くにはいない・・・
体力はなんとか持ちましたが、精神的にクタクタでした。
不正出血も2ケ月 続きました。
これで子供ができたら、もうあたしやっていけない とかなり弱気でした。
一年はあっと言う間でした。
今度は、夫が仕事を興すと言い始めました。
理由はいろいろあったのですが、とにかく反対しました。
あたしの大反対を押し切って夫は会社を興し、何ヶ月かすると忙しくて事務仕事まで手がまわらないからということで、あたしは勤めていた会社を辞め、事務仕事を手伝うようになりました。
「家事をしながら出来る仕事」という夢は叶いましたが、
何かが違う気がしていました。
その頃買ったパソコンでヤフーオークションをよく見ていました。
ハンドメイドのバッグやお財布などが出品されていることを知りました。
あたしもミシンがあるし何か作れば売れるかな。と軽い気持ちで出品してみました。
はじめは、生地代とトントンくらいでした。労力を考えると完全に赤字です。
その頃作っていたものは、商品とは言えないくらいお粗末なものだったと思います。
高値で落札されている商品と、安値落札のあたしの作った物は何が違うんだろうと毎日考えていました。
落札されては考え、出品しては考え、何ヶ月かたちました。
慣れてきたのか、赤字にはならない程度の金額で落札されるようになってきました。
すると、ブランケットを落札して頂いた方から嬉しいメールが届きました。
「落札したブランケットと同じ生地で同じサイズであと2つ欲しいのですが、作っていただけますか?」と。
コレだ!と思いました。
オーダーメイドだ!と。
あたしが作った雑貨は、所詮あたしのエゴでしかないんです。
あたしがかわいいと思った生地で、あたしの使いやすい形・サイズの小物をつくる。
それは、あくまであたし仕様のもので、万人に合うことはない。
ひとりひとりに合った商品をつくりたい。
身体が熱くなりました。
見よう見真似でホームページもつくってみました。
はじめは、月に何件かのオーダーを頂く程度でした。
ご入金頂いた翌日に作製・その翌日には発送出来ていました。
そして半年後、急に売上が伸びました。
前の月と比べると、5倍以上でした。
びっくりしました。びっくりするしかありませんでした。
そこからは、順調にオーダーのご依頼を頂ける様になりました。
嬉しくてたまりません。
オーダーメイドの商品は、お客さまとあたしの合作だと思っています。
あたしのエゴではなく、お客様のご希望がたっぷりつまった
お客様のための世界でひとつだけの商品です。
あたしは、この仕事に誇りを持っています。
やっと見つけた、あたしの「仕事」です。
いつまでやっていけるかはわかりません。
もしかしたら、あたしにとって もっと魅力的な仕事に出逢うかもしれないからです。
だけど、この仕事が大好きです。
これからも、どうかよろしくお願い致します☆
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